290 I ハマの歴史(1)横浜村の人々の暮らし

 今日から始まる「ハマの歴史」。

横浜の原点に遡って、

一緒に、タイムスリップして見ましょう。

それじゃ、まずは、江戸時代の、

「横浜村」に、ズームイン!


 

なのばななが四苦八苦して やっと描いた、

釣り鐘状の内海のイメージ画像なんだけど、

惜しい!ちょっと違うよ。

 手前に突き出している部分は砂州なので、

小山や緑地は間違い。正しくは、松林。

 民家も、正しくは、

 砂州の付け根の辺りや、内海の海岸沿いにあった。


なのばななが、私の指示で何度もやり直したけど、

難しかったみたい…。残念。


しょうがない。

それなら、私が手描きするしかないか…。


はい、描きました~。

これが江戸時代の簡単地図。

赤く塗っている所が、横浜村。

昔の字では、「横濱村」と書いていたわ。

水色で塗っている所は、海。

関内の駅は、この地図の入海の中にあった。

水神の祠から少し上の、海の中よ。



横浜村には、横に張り出した洲乾島も含まれた。

                                              (洲干島、宗閑島とも書く)

名前の通り、昔は、本当に島だったのが繋がった。

さらに歴史を遡ると、縄文時代には、なかった。

これは、私が江戸東京博物館に行った時、

江戸湾の縄文時代の地形模型を見て、確認したの。

だから、洲乾島は、

その後、少しずつ形成されていったと推測される。

弥生時代か、古墳時代頃か?


この島は、砂州でできていて、

それはどこから来たかと言うと、上の大岡川から。

この川は、昔、暴れ川だったようで、

岸を削り取って流れていたから、

その土砂が海へと運ばれて行ったのね。

それが、何十年、何百年と続いて、

湾の外側へと堆積していく。

でも、それが扇形にならなかった。

海流のせいなの。

左の方から右へと海水が進むので、

堆積した砂を、真横に切り取ったと考えられている。

そして、時間と共に洲乾島は陸地と繋がって行った。

この島ができたことで、なおさら、

入海には、土砂が堆積し、浅瀬になっていく。

この浅瀬というのが、後々、大きな意味を持つから、

覚えておいてね。

それから、黄色で示した周辺の小山たち。

これらも、ちょこっと頭の片隅に入れといてね。


⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️


改めて、江戸時代の横浜村の話に戻るとしましょう。

内海の下に広がる、横に長い浜辺のことを、

「横浜」と呼んでいた。

でも、ここは住むには適さない砂地。

横浜村の人々の家は、

陸地の方か、横浜(洲幹島)の付け根の辺りにあった。

江戸期後半には、100軒の民家があったと言うから、

人口にして、500人ほどか?

横浜村の人々は、半農半漁で暮らしを立てていた。

この辺りは、いろんな種類のお魚も獲れた。

特に、スズキが高級魚として有名で、

近くの神奈川宿や、江戸へも出荷していたと言う。

お刺身にしても良し、焼いても良し。


話は、脱線するけど、

現在、横浜駅と山下公園を結ぶ定期遊覧船があって、

その名前をシーバスと名付けてるのは、

江戸時代の名産であるスズキが由来なのよ。

えっ?海のバス(BUS)かと思ってた、って?

それは勘違いね。

英語でSEA BASSって書いてあるわ。


スズキの他には、

ボラ、ハゼ、コチ、ヒラメ、カレイ、キスなど。

あとね、穴子も獲れてたらしい。

穴子と言えば、

今も、子安浜の辺りで穴子漁が行われているよ。

私、その辺りまで、確認のため見に行ったことある。


そして、横浜や金沢の特産品として、

当時、有名だったのは、ナマコと海苔。

海苔は、浅草海苔として買われていたみたい。


⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️


横浜村は、良い魚の漁場に恵まれていたので、

村人は、漁師さんが多かったけど、

海に出られない日は、

畑仕事もして、生計を立てていたようなの。

魚を売るために、

神奈川宿や日本橋へも、船で行き来して、

町の賑わいや文化を知ることもできた。


また、横浜村は、神奈川宿の助鄕となっていたので、

人手や馬を出す義務もあったのね。

そういう点では、

やはり、収入の基本となる、漁が生活を左右する。

だから、

浜の真ん中にある水神様や、

砂州の先っちょにある弁天様を、

大切にしたと思うの。

海上安全や豊漁を願って。


この杉山弁天社は、

実は、あの、源頼朝が勧請したと言われているの。

伊豆国の土肥の杉山にあった弁財天に、

平家打倒の必勝祈願をしたこともあって、

ここに、杉山弁天と名付けたらしい。


古地図を見ると、

横浜一体は、砂地に松林が続いていて、

一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居…とくぐると、

朱色の社殿の前に清水の池も。

青い海、緑の松原、朱色の鳥居。

かなり風光明媚な場所だったんじゃないかしら?


そして、陸地側の横浜村には、増徳院というお寺。

村人の冠婚葬祭の中心であり、

寄り合いの場でもあったかもしれない。


⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️


こうして見ると、なんだか、

横浜村の人々の暮らしが目に浮かぶようだわ。

お父さんたちが漁に出て、

お母さんは畑仕事をしながら、家を守る。

子供たちは、お父さんの背中を見て育ち、

15、6にもなれば、一緒に海に出る。

時々、江戸に出て珍しいものを手に入れ、

ちょっと贅沢することもあったかもしれない。

でも、海が荒れて、

魚が獲れない日が続いたりすると、大変。

昔の人々の暮らしは、

良いにつけ、悪いにつけ、自然と共にあった。

自然の恵みを受け、

自然に感謝し、

そしてまた、自然を恐れた。


そん長閑な暮らしは、

平穏な中にも、小さな幸せがあったと思う。


そして、幕末を迎える。

何が起こるとも知らず…。


「ハマの歴史」シリーズ第2弾は、「ペリー来航」。

乞うご期待!


                            by      ころりん


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