317 I ハマの歴史(8)港崎遊廓の悲劇
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
1858年7月、安政5年6月、日米修好通商条約がされ、
翌年の1859年7月1日、安政7年6月2日、
横浜の港が開かれた。
開港場の新しい町造りが突貫工事でなされる中、
何にもない湿地帯に、
ぽつんと造られたのが、幕府による遊廓、
港崎(みよざき)遊廓。 ⬇️ココ
町造りの設計段階の最初から、遊廓有りきだった。
なぜか?
それはね、
外国側からの要望を受け入れて、そうなったみたい。
ホントかどうかわからないけど、
特にオランダが強く要求した、という説もある。
オランダは長崎で、丸山遊廓に出入りしていたから、
同じようなものが横浜にも欲しいと思ったのかも?
他の国の人たちは、
日本にそういうものがあること自体知らない。
幕府は、ハイ、承知しました、と言ったものの、
時間がない。
大急ぎで、経営者を探し、
遊廓で働く女性も、たくさん集めなくてはいけない。
そこで、幕府が声をかけたのが、
品川宿で妓楼を営んでいた、岩槻屋の佐吉。
江戸には、吉原遊廓もあるけれど、
それは、日本人による日本人のための接待所。
外国人が好む店構えとは、どんなものか?
やはり、長崎の丸山遊廓を大いに参考にしたようだ。
とは言え、基本は、江戸の吉原遊郭がベース。
幕府は、佐吉に対して、
日本人と外国人の客が交わって、
余計なトラブルが起きないように、注文した。
日本人専用と外国人専用に分けて、
別棟で2軒建てるように、と。
そうやって、港崎(みよざき)遊郭が誕生。
入り口は、大門1つで、
敷地全体をぐるりと堀で囲んだ。
お城と同じ造りよね?
遊女が逃げられないようにしてるのかしら?🙄
浮世絵を見ると、
真ん中に大通りがあり、桜並木。
春には華やかに賑わいそう。
左右に、たくさんの遊郭がある中で、
一番大きいのは、先ほどの佐吉が開いた、岩亀楼。
ここで、岩という字が使われているのは、
彼が、岩槻の出身だったから。(現在の埼玉県)
どんな造りか、浮世絵をお見せできないのが残念。
天井が高く、中庭のような吹き抜けの、
ニ階建てと、三階建てで、窓の形が特徴的。
花頭窓と言って、形が釣り鐘状になっている。
Geminiぐるり~ん、
花頭窓を描いてちょうだい。

この窓は、元々は、禅宗のお寺で使われた形式。
それが、なぜか、長崎の丸山遊郭では、
オランダ人、中国人の接待用に、
異国情緒を醸し出すために取り入れられたみたい。
それを横浜でもマネしたって訳なの。
ぐるりんが、
浮世絵風に、建物内部の様子を描けないのが残念。
真ん中に中庭風の吹き抜けがあり、
朱塗りの欄干などの装飾がきらびやかなんだけど。
とにかく、贅を尽くして造られたので、
噂が噂を呼んで評判となり、
昼間は、見物人が次々とやって来たみたい。
ちゃっかり、賃料も取ってね。
こういう所に行くのは、
たいてい、参勤交代でやってきたお侍さんたち。
浮世絵を見ると、
確かに、一度は見てみたいと思わせる。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
幕末、この岩亀楼に、
喜遊(きゆう)という遊女がいたそうな。
その美しさに虜になった外国人から、
猛烈なラブコール。
身請けの申し入れがあったのだ。
でも、喜遊は、頑として、首を縦に振らなかった。
外国人の相手をするくらいなら、
死んだほうがマシ。
その決心は堅く、とうとう本当に自害してしまった。
その辞世の句。
「露をだに
厭う倭(やまと)の女郎花(おみなへし)
ふるあめりかに袖は濡らさじ」
亡くなったのは、文久2年の晩秋のこと。
喜遊、19歳の若さだった。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
文久2年と言えば、
激しい攘夷運動の真っ盛りの頃よね?
喜遊の句は、攘夷派の間でたちまち評判となり、
よくぞ、やったと、崇め奉られた。
このエピソードを、
作家の有吉佐和子が戯曲に書き、
舞台でも演じられた。
私も、それをテレビ中継で見たことがあるの。
確か、大地真央さん主演で。
それより前にも、いろいろな人が演じてきたらしい。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
こういう話は、今の世の中、
排外主義とか言われてしまいそうだけどね。
でも、当時の世の中を思えば、
相当に決意のいることだったと思うわ。
ラシャメンになりたくない喜遊の、純粋な気持ちも、
痛いほどよくわかる。🙄
仮に、そうなったとして、
今度は、国内で、どういう目で見られるか?🙄
国賊扱いでしょ?!😮
いやぁ…、どっち転んでも茨の道!
大変な時代だったと思う。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
そんな港崎(みよざき)遊郭に、一大惨事!
慶応2年の豚屋火事よ。
この頃は、周りの新田も開発され尽くして、
すっかり町になっていて、
遊郭のすぐ近くにある、豚屋から出火したため、
あっという間に遊郭に燃え移り、大変なことになる。
なぜか?
さっき言ったように、
出入り口は、大門1つ。
周りは水堀で囲まれているから、
逃げ惑い、焼け死んだ人も多かったと思うわ。
火の勢いは強く、日本人町だけでなく、
外国人居留地までもが燃え尽くした。
なぜだと思う?
日本の商店は、木造だから、燃えやすいのは当然。
では、居留地はどうかと言うと、
初めの頃は、木造がほとんどだった。
こうして、町全体が焼け焦げてしまった。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
ハマの歴史、次回は、
火事の後、生まれ変わった横浜町の様子。
火事の教訓が、どう生かされて復興したか?
その辺を丁寧に探って見ましょう。
乞うご期待。
by ころりん
✳️関連の過去記事は、こちらから。
⬇️
✳️私のプロフィール&過去記事一覧(画像付き)へ。

コメント
コメントを投稿