348R ゴジラ松井という男の生き様
さっき、テレビを見ていたら、
突然、巨人新監督に松井秀喜氏、のテロップが!
まもなくして、記者会見が始まり、
見ましたよ、私も。
ユニフォームには、90の背番号!
元木さんが解説してたけど、
あのスーツ姿の一揃いが、オリンピックの時、
長嶋さんとお揃いで着用したものではないか?
身近な人には、そんなこともすぐに分かるのね。
としたら、今日の服装には、
松井さんの気持ちが表現されているのね。
インタビューで、彼は言った。
今日のこの姿を、長嶋さんに見てもらいたかった。
ああ、やっぱり…、
長嶋さんとの約束が、彼を、こうして導いたのね。
そして、続けて言った。
僕は、長嶋監督にはなれない。
この言葉には、いろいろな意味が込められている。
彼にとって長嶋茂雄とはどういう存在だったのか?
今日は、その辺を解き明かしていきたい。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
会見のテロップで初めて知ったんだけど、
松井さんは、石川県の能美市の出身だとか。
えっ?
ということは、2024年元日の、
あの大震災で、彼のふるさとも被害にあった?
お~い、Geminiぐるりん、この時、彼はどうした?
Geminiぐるりん:
「2024年の能登半島地震の際、アメリカにいた松井秀喜さんは大変驚き、すぐに故郷を深く思いやる行動を起こしました。
松井さんは震災の知らせを受けると即座に動かれ、日本国際交流センター(JCIE)などを通じて1,000万円の義援金を寄付しました。
さらに、自身のベースボール財団などを通じて被災した子どもたちへ野球用具を贈るなど、「今、自分にできること」で故郷の石川県や能美市を直接励まし続けました。」
あぁ、そうだったんだ。
知らなかったわ。
野球道具も何もかも失ってしまった被災地に、
優しい気持ちが届けられたのね。
松井さんが巨人に入団する前は、
どんな子供だったのかしら?
ぐるりん、調べてくれる?
ぐるりん:
「松井秀喜さんの巨人入団前(能美市での子ども時代)の主なエピソードです。規格外の体格と優しさ、そして圧倒的な野球の才能にあふれた少年でした。
- 中学生で大人の体格:生まれたときから3,960gと大きく、中学入学時にはすでに身長170cm、体重70kgを超えて大人のような体格でした。
- 柔道でも圧倒的:小学生時代は柔道にも打ち込み、石川県大会で優勝するほどの実力でした。
- あまりに飛びすぎて「右打ち」に:少年野球チーム(根上学童野球クラブ)に入った当初、あまりに打球を飛ばしすぎるため、周囲への危険を考慮して、監督から「左打ちから右打ち」に変えるよう指示されたほどでした。
- 中学での「全打席敬遠」伝説:根上中学校の野球部時代、練習試合でその強打を恐れられ、全打席敬遠されたという、のちの5打席連続敬遠を予感させるエピソードがすでに残っています。
- 星稜高校での大活躍:その後、地元を離れ金沢市の星稜高校へ進学。4度の甲子園出場を果たし、3年夏の「5打席連続敬遠」は日本中を震撼させました。」
へぇ~、小さい時から、そんなにすごかったんだ。
そして、甲子園での活躍から、ジャイアンツへ入団。
記者会見では、長嶋監督とツーショット。
これは、よく覚えてるわ。
ぐるりん:
「はい、1992年12月の入団記者会見で、松井さんは長嶋監督と一緒に写真を撮っています。
あれ?長嶋さんの背番号って、90じゃなかったっけ?
この時は、まだ、33だったのね。
ぐるりん:
「ちなみに、あなたが仰った「90」は、長嶋監督が1975年に初めて巨人の監督(第一次政権)に就任した際に着けていた伝説の背番号です。今回、松井さんが新監督として「90」を選んだのも、その恩師への強い思いが込められています。」
あ、そうか。
一番最初は90で、2度目に33にしたのね?
背番号を変えたということは、
初心にかえって頑張るぞ、という意思表示?
ぐるりん:
「お察しの通り、まさに「初心に帰って再出発する」という心機一転の強い気持ちが込められていました。
長嶋監督が12年ぶりに巨人の監督へ復帰した1993年、背番号を自身の巨人入団年である「昭和33年」にちなんで「33」に決定しました。これには、まばゆく「燦々(さんさん)と輝く」という意味のほか、もう一度ルーキーのときのようなまっさな気持ちでチームを立て直すという強い決意が込められていました。 」あ、入団したのが、昭和33年だったんだ。へぇ。🙄
引退のセレモニー、私も見たけど、
あの時の背番号も33だったかしら?
ぐるりん:
「監督を引退(勇退)する時の背番号は、現役時代の永久欠番だった「3」でした。
長嶋監督の背番号は以下のように変遷しています。
- 1975年〜1980年(第1次政権):「90」(現役引退直後、栄光の「3」を永久欠番として封印し、心機一転で選んだ番号)
- 1993年〜1999年(第2次政権・前半):「33」(再出発の初心に帰る番号)
- 2000年〜2001年(第2次政権・後半〜引退):「3」(26年ぶりの復活)
【背番号「3」復活のドラマ】
2000年を迎える際、広島からFAで移籍してきた大物スラッガーの江藤智選手が、前球団で「33」を着けていました。長嶋監督は彼を大歓迎し、「江藤君、僕の33番を譲るから、君は着け慣れた番号で頑張りなさい」と、なんと自分の背番号を譲ってしまったのです。
そして長嶋監督自身は、20世紀最後のシーズン、野球人生の集大成としての原点回帰の決意を込め、封印していた永久欠番「3」を26年ぶりに復活させました。そのため、2001年に監督を引退された瞬間は、背番号「3」を背負っていました。 」
2000年を迎える際、広島からFAで移籍してきた大物スラッガーの江藤智選手が、前球団で「33」を着けていました。長嶋監督は彼を大歓迎し、「江藤君、僕の33番を譲るから、君は着け慣れた番号で頑張りなさい」と、なんと自分の背番号を譲ってしまったのです。
そして長嶋監督自身は、20世紀最後のシーズン、野球人生の集大成としての原点回帰の決意を込め、封印していた永久欠番「3」を26年ぶりに復活させました。そのため、2001年に監督を引退された瞬間は、背番号「3」を背負っていました。 」
ええっ?!
背番号33を譲ったの?
それで、やむなく3番に戻った、ってこと?
なんて、優しい。
そんなエピソード、みんな知らないと思うよ。
でも、今回、
松井さんは、なぜ、90番を選んだのかしら?
ぐるりん:
「松井監督が今回選んだ「90」は、長嶋監督が選手から初めて「監督・長嶋茂雄」になったときに、大きな情熱と苦労を味わいながら背負った最初の番号です。師匠が通ったその「監督としてのスタートライン」を、松井新監督も同じように引き継ぐという、非常に熱いメッセージが込められています。 」
ああ、そうか。
自分が知ってる33番ではなく、
長嶋監督としてのスタートの番号を選んだのね。
うむむ。なんか、意味が深いな。
ところで、松井さんは、
いつアメリカに渡ったんだっけ?
長嶋監督が引退する前?後?
ぐるりん:
「松井秀喜さんがアメリカ(メジャーリーグ)に渡ったのは、2003年です。
はい、松井さんは長嶋監督が勇退する最後の雄姿(2001年)を主軸として見届け、その翌年(2002年)に4度目のリーグ優勝と日本一を置き土産にしてから、2003年にアメリカへ渡りました。」
ふんふん。なるほど。🙄
本当は、もっと早くアメリカに行きたかったんじゃ?
長嶋監督の最後の最後まで、寄り添っていたんだ。
ゴジラ松井が、アメリカを唸らせていたかと言うと、
なんだか、不調だったみたいね。
長嶋さんが、何かで話していたけど、
電話口で素振りをさせて、
その音を聞いてアドバイスしたらしいわ。
ぐるりん:
「松井秀喜さんがヤンキースに移籍した1993年、アメリカの過酷な攻めや環境の違いに苦しみ、打撃フォームを崩して深刻なスランプに陥っていた時期がありました。
心配した長嶋茂雄さんは、ニューヨークにいる松井さんに国際電話をかけました。そして電話越しに「秀喜、ちょっとそこでバットを振ってみろ」と指示し、受話器から聞こえてくる「ブンッ」というスイングの風切り音(風圧の音)だけを頼りに、スイングのキレや迷い、重心のズレを見抜いて的確なアドバイスを送ったのです。
長嶋監督の卓越した五感と、長年「師弟の素振り(素振り部屋でのマンツーマン指導)」で培った二人の深い絆があったからこそ生まれた、野球界に語り継がれる有名な伝説の逸話です。」
うんうん。やっぱり、ほんとうの話だったのね。
松井さんのアメリカでの活躍を、詳しくは知らない。
ここは、ぐるりんに聞いてみよう。
ぐるりん:
「松井秀喜さんはニューヨーク・ヤンキースの7年間で、通算916試合に出場し、打率.292、140本塁打、597打点という素晴らしい成績を残しました。
主なハイライトは以下の通りです。
- 世界一と日本人初のMVP:2003年と2009年にワールドシリーズへ進出し、2009年には打率.615、3本塁打、8打点という驚異的な大活躍でヤンキースを世界一に導き、日本人初のワールドシリーズMVPに輝きました。
- 勝負強さとタフさ:2003年の本拠地開幕戦で満塁ホームランを放つなどポストシーズンやチャンスに滅法強く、ヤンキース在籍時は518試合連続出場の記録も樹立して現地ファンから深く愛されました。」
ありがとう。
すごいね~。ワールドシリーズでMVP!!😮
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
松井さんは、国民栄誉賞に選ばれているのよね?
長嶋さんも、その時に国民栄誉賞を受けた。
国民栄誉賞って、確か、王貞治さんが、第1号。
王さんの記録を受けてできたのが、国民栄誉賞。
そして、松井さんの国民栄誉賞受賞の時、
長嶋さんも、一緒に受賞したのよね。
私の邪推なんだけど、
松井さんに打診があった時、
長嶋さんも受賞するなら、受けます、
とか言ったんじゃないかしら?
ぐるりん:
「実は、松井秀喜さんに対しては2009年にワールドシリーズMVPを獲得した際にも国民栄誉賞の打診がありましたが、本人が辞退していました。
その後、再び打診があった際にも、松井さんは「師である長嶋監督がまだ受賞されていないのに、自分が先にいただくわけにはいかない」という強い思いを周囲に明かしていました 。松井さんにとって長嶋さんは特別な恩師であり、「長嶋監督がいたからこそ、今の自分がある」という絶対的な敬意があったからです。
この松井さんの熱い「師弟愛」と固い固辞の姿勢を受け、当時の政府が「それならば、プロ野球界の発展に並外れた貢献をし、誰もが納得する大スターであるお二人へ同時に贈ろう」と決定し、2013年の劇的な同時受賞が実現しました。」
あ、やっぱり。
2人同時って、まるで、一心同体みたいな関係ね。
そう言えば、東京オリンピックの時も、
2人一緒に、聖火ランナーになった。
歩けない長嶋さんを表舞台に引っ張り出したのも、
松井さんかしら?
ぐるりん:
「その通り、まさに2021年の東京オリンピックの開会式で日本中を感動させた、二人の絆の物語そのものです。
東京オリンピックの聖火ランナーの最終点火者前という大役の打診を受けた際、松井さんはやはり「長嶋監督こそが日本のスポーツ界の象徴であり、この大舞台に立つべきだ」と、恩師の推薦を強く願いました。
長嶋さんが脳梗塞の後遺症で右半身が不自由であることは誰もが知っていましたが、松井さんはあえて長嶋さんを表舞台へと誘いました 。それは決して無理をさせるためではなく、「長嶋茂雄という存在が、どれほど多くの日本人に希望を与えてきたか。そして今も力強く生きている姿を世界に見せることこそが、本当のオリンピックの精神である」という、松井さんなりの深い敬意と愛、そして「ゴジラの生き様」からくる決断でした。
開会式当日、松井さんは優しく長嶋さんの体を支え、寄り添いながら一歩一歩、国立競技場の舞台をともに歩みました 。長嶋監督の歩みをしっかりと支える松井さんの姿は、単なる野球の師弟を超えた、人生の伴走者としての強い絆を世界中に証明しました。」
うむ。やっぱり、松井さんの強い意思を感じるわ。
長嶋さんに対する敬意と尊崇の念。
長嶋さんが、晩年、病床で、
見舞いに来た松井さんに、何かを頼んだ。
2人の間で約束があった。
松井さんは、それが何かは明かさなかったけど、
今日、その約束が、形として表れたということね。
長嶋さんは、オリンピックの代表監督になりながら、
病に倒れた。
そういう無念さもある。
巨人を強いチームにして優勝を目指してほしい。
オリンピックに出て、世界一になってほしい。
そんな、長嶋さんの果たせない夢を、
愛弟子の松井さんに託した。
男と男の約束…。
でも、今の世の中、約束しても守れないことが多い。
何年も前の約束を、忘れずに持ち続けて、
本気で実現しようとする松井さんは、素晴らしい。
何年経っても、恩師への感謝の気持ちを忘れない。
ゴジラって、一見怖そうな顔をしてるけど、
ホントは、すごく心優しい存在なのね。
そういう気持ちがひしひしと伝わってくるわ。
すごく義理堅い。
失われつつある、日本の古き良き時代がここにある。
彼にとって、長嶋監督は、
単に野球の先輩としての存在だけでなく、
人生を導いてくれた人なのだろう。
長嶋監督については、
私生活では別の一面があったかも知れないけれど、
ここは、素直に、
男と男の約束を果たそうとする、ゴジラの健気さに、
ただ、ただ、胸を打たれる私。
男の生き様を見た気がする。
松井新監督の就任を祝い、
今後の活躍を期待したい。
私の父も、巨人ファンで長嶋ファンだったから、
きっと喜ぶと思うわ。
これから、仏前で報告。
フレー、フレー、ジャイアンツ!
フレー、フレー、ゴジラ!
by ころりん
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