256 I 関東大震災:横浜港壊滅!
1923年(大正12年)9月1日、大桟橋には、
午前11時55分に離岸したばかりの船がいた。
名前は、エンプレス・オブ・オーストラリア。
カナディアン・パシフィックの船だ。
その出航を見送る人々は、船に手を振って、
別れを惜しんでいた。
その時、突然、関東を襲う大地震が起きた。
午前11時58分のことだ。
街は、あっと言う間に火の海に包まれ、
逃げ惑う人々で、地獄の様相を帯びていた。
鉄で造られた大桟橋は、頑丈なはずだったが、
その入り口付近が崩落。
見送り客など、たくさんの人が、
崩れた橋とともに、海に投げ出された。
鉄桟橋として完成したのは、
1894年(明治27年)のこと。
スクリューパイル(螺旋杭)が、
海底に505本も埋め込まれて作られた桟橋。
それが、あっと言う間に崩壊してしまったのだ。
まさか、あの、鉄桟橋が…。
桟橋の上に敷かれた枕木のようなデッキ部分からは、
わずかに海が透けて見える。
あまりの揺れに、
船長は、船を広い港内へと退避させようとしたが、
ここで最悪の事態が起きてしまった。
海底の泥が巻き上がり、他の船のワイヤーや錨が
自身の船のスクリューに絡み付いてしまった。
絶対絶命の危機。
炎に包まれる危険と隣り合わせの中、
サミュエル・ロビンソン船長は、
すぐさま船から救命ボートを何隻も降ろし、
海に投げ出された人々の救助に当たった。
桟橋の入り口付近には、
火の海と化した街へ進むこともできない、
何千人もの避難民が押し寄せていた。
オーストラリア号は、
スクリューが片方動かない状態でありながら、
巧みな操船で、
桟橋の付近に、奇跡的に踏みとどまった。
そして、すぐさま、縄梯子を垂らして、
海に落ちた人々を、次々に救助した。
なんと、3000人もの人々の命を救ったという。
一方、大桟橋には、もう一隻の船の姿があった。
アンドレ・ルボン号。
フランス郵船の船だ。
地震直後、税関倉庫などの爆発が起こり、
港の海面に油が流れ出した。
アンドレ・ルボン号のすぐ近くまで、
火の海が押し寄せ、危険が迫り来る中、
船長は、なんとか自力で船を動かそうとした。
しかし、できない。
非常に危険な状態に陥った。
その時、
街の勇敢な労働者が小さなボートを出し、
船を炎の届かない安全な場所へと引っ張って、
無事、避難させることができたと言う。
アンドレ・ルボン号の救助活動で最も有名なのが、
船内に設置された、大規模な託児所。
震災によって親とはぐれたりした子どもたちを
乗組員たちが手厚く世話をしたと言う。
横浜の被災民たちに向けて、
船内に備蓄されていた、大量の乾パンや真水を、
惜しみなく分け与え、
多くの人々の飢えと渇きを救ったと言う。
外国からやってくる大型の船は、
長い航海に向けて、大量の食料や水を積んでいる。
そして、巨大な空間のある場所。
これは、災害時に威力を発揮し、
即席の大規模な避難所となったという事実に、
改めて、考えさせられるところがある。
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大桟橋の向こうには、新港埠頭があるが、
赤レンガ倉庫や保管倉庫群は、どうなっただろう?
新港埠頭は、コンクリート製の岸壁が整備され、
これも、頑丈な造りにはなっていた。
しかし、その8割が崩れてしまった。
岸壁に据え付けられていたクレーンも、
すべて海の中へ。
その上、一気に地盤沈下も起こった。
Geminiぐるりんによると、5尺も沈下。
5尺と言うと、約1. 5m。相当な沈み具合だ。
臨港鉄道のレールはぐにゃりと曲がり、
道路にも亀裂が入って、
新港埠頭は、 すべての機能を失ってしまった。
新港埠頭の全景が採集完成したのは、
1917年(大正6年)のこと。
そもそも、ここが造られたのは、
生糸貿易のための本格的な港を整備するためだった。
そうなのだ。創庫の中にあるのは、大量の生糸。
岸壁の崩壊も痛手であるが、
この生糸を守れなかったことに対して、
関係者は、無念の涙を流したに違いない。
当時、生糸は、ドル箱商品だった。
日本の全輸出額の半分も占めていた。
新港埠頭の惨憺たる状況は、
まさに、日本経済の死を意味するものだった。
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横浜港が壊滅的被害を受けた、と言うニュースは、
政府にとっては、衝撃的な知らせであり、
日本経済の命綱が絶たれてなるものかと、
必死の挽回作戦が練られることになる。
次回は、最終回。
復興の様子をお届けしましょう。
横浜港の歴史について調べたい方は、
ぜひ、横浜みなと博物館に行かれることを
(⬆️リンク貼りました)
お勧めします。
by ころりん
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