305 I ハマの歴史(6)吉田新田&横浜新田
黄緑色に塗られているところは、新田。 ここに描かれている吉田新田と横浜新田は、 江戸時代の初めまでは、入海だった所なの。 吉田新田は、1656年(明暦2年)、 江戸の材木商、勘兵衛(良信)が手掛けたもので、 埋め立ては、主に周辺の小山を削って行われたの。 中村大丸山と天神山の土をね。 技術者は、黒田助兵衛で、 埋め立てたい場所の外枠の土手造りから始めたけど、 これが、洪水で、もろくも崩れ去った。 3年後、技術者を砂村新左衛門に代えて、再度挑戦。 (この人ね、現在の東京都にある砂町の辺りも開拓。) 洪水で崩れないように、潮除堤に石垣を使ったの。 石は、安房と伊豆から運んだんだって。 土は、大丸山と天神山からで、前と同じ。 完成したのは、1667年(寛文7年)のこと。 これだけ広い面積の新田開発をしたということで、 第四代将軍、家綱が、 勘兵衛に、吉田という苗字を授けた。 それで、人々は、吉田新田と呼ぶようになったのね。 ちょっとした大名が1万石とすると、 1038石の広さは、相当、価値が高い。 9年がかりで、8038両を費やしたそうよ。 今のお金に換算したら、いくらになるかしら? う~ん、ざっと、8億円?🙄 すごいお金持ちだったのね。 江戸城出入りの業者だったから、 いろいろ、修繕とか頼まれたのかもね? 明暦の大火もあったことだし。 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ 吉田新田ができて150年ほど経った、 1817年(文化14年)頃、 横浜村の人々によって開発されたのが、横浜新田。 名主の石川徳右衛門が中心となって造ったらしい。 この斜めに埋め立てた場所は、 現在の中華街に、ほぼ相当するの。 海岸線に平行して、あぜ道が造られたんだけど、 時代が移り変わって、 あぜ道は、そのまま道路に変わったため、 中華街だけ、道路の方向が他と違う。 そうなのよ。 だから、中華街に行くと、方向感覚が狂ってしまい、 私、よく道に迷っていたわ。😀 ペリーやハリスが来て、いざ、開港となった時、 横浜新田は、すぐ、外国人居留地に転用できたので、 横浜新田が造られた意義は大きいわ。 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ そして、第三の埋め立て地もあったので、 少し、触れておくわね。 ペリーが来る前から始まった太田屋新田。 ...