258 I 関東大震災(3)不死鳥のごとく復活の横浜港
関東大震災によって横浜の港は壊滅し、
無惨な姿になってしまったが、
ここで、驚異の猛スピードで、復活を果たす。
特に、港湾施設の復旧は、
1年半という短さだった!
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復興は、震災から、わずか50日後にスタート。
このスピード感に、
度肝を抜かれた人も多いにちがいない、
なぜ、そんなことができたのか?
答えは、
全額国費による復旧工事が進められたから。
横浜港は、帝都の関門!
日本経済の死活問題に繋がるので、
国を上げて、なんとかせねばと、急いだのだった。
先陣を切って、最初に完成したのは、大桟橋。
1925年(大正 14年)完成。
スクリューパイル(鉄の螺旋杭)を交換。
これがスクリューパイル


麒麟麦酒(キリンビール):「キリンビール館」 味の素(鈴木商店):「味の素館」 明治製菓(現・明治):「明治製菓館」 日清製粉:「日清製粉館」 東京芝浦電気(現・東芝)や日立製作所:「電気 館・科学館への出展」 日本郵船(NYK)や大阪商船:「海運・船舶系の展 示」


上屋などが完成したのは、1928年(昭和3年)で、
そこには、帝国ホテルのレストランも開店し、
この後の客船の黄金時代を迎える序章となる。
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最も痛手の大きかった新港埠頭の復旧には、
かなり時間がかかった。
完成したのは、1931年(昭和6年)。
この年は、昭和恐慌が吹き荒れ、苦難の出発となる。
新港埠頭は、地震対策を重視して復旧が進められた。
まず、海底工事には、
ケーソンというコンクリートの四角い箱を使って、
地震に強い構造にしたことが注目される。
倉庫も、火災にも強いコンクリート製に。
また、ガントリークレーンも、しっかりと固定した。
臨港鉄道など地上の整備が完成するのは、
1931年(昭和6年)のことだった。
赤レンガ倉庫の1つは、前半分が崩れてしまった。
そこは、そのままとしつつも、
赤レンガの内側は、
すべて、鉄筋コンクリートの内壁で補強した。
こうして、工事を急ぎつつも、
地震対策には抜かりなく、
最新の技術により、完璧とも思える工夫がなされた。
新しく生まれ変わった大桟橋と新港埠頭。
これら、最新の設備によって、
東洋一の港と称され、浜っ子自慢のものとなった。
これにより生糸貿易の復活を果たす、はずだった。
ところが、この年、新たな問題が発生。
日本は、昭和の不況の嵐が吹きすさぶ時代に突入。
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大桟橋の次に復旧したのは、ホテルニューグランド。
1927年(昭和2年)完成。
昭和2年と言ったら、
大桟橋が完成しただけで、
街は、まだまだ、焼け野原にバラック建ての状態。
そこに、真っ白な美しいホテルが、現れた。
浜っ子たちは、
フェニックスのような、希望を、そこに感じていた。
これが、何もない街に、忽然と現れたホテル。
この後、昭和の文豪たちが執筆部屋にしたり、
マッカーサーが宿泊所にしたことで、
有名ホテルとなって行く。
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ご存じの人も多いと思うが、
山下公園は、
震災がれきの埋め立てによって造成された、
日本初の臨海公園。
山下公園として、開演する前に、
この埋め立て地で、復興博覧会が開かれた。
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クジラも展示した
博覧会には、当時の有名企業が、パビリオンを出展。
ここは、geminiぐるりんに、任せましょう。
- 横浜(生麦)に巨大な工場を持つ、地元・横浜を代表する大企業です。モダンなデザインのパビリオンでは、冷えたビールの試飲や最新の製造工程が紹介され、大人たちに大人気でした。
- 当時、日本の食卓に急速に普及していた最先端の調味料として、巨大な一大パビリオンを出店。調理実演やサンプルの配布、楽しげな食の未来のディスプレイで家族連れの目を引きました。
- キャラメルやチョコレート、ビスケットなど、子どもたちが大喜びするお菓子をテーマにした可愛らしい特設館です。当時のモダンなパッケージがずらりと並び、博覧会のお土産スポットとして大盛況でした。
- 日本の食生活の近代化(洋食やパン、麺類の普及)を支える大企業として出店。小麦粉から作られる様々な製品や、最先端の製粉テクノロジーを分かりやすく展示していました。
- 独立館のほか、共同の「近代科学館」などにも、これからの昭和の家庭を変える「国産の最新家電(電気冷蔵庫や洗濯機、ラジオなど)」を大々的に展示。未来のオール電化の暮らしを提案し、当時の人々を驚かせました。
- 横浜港を舞台にした博覧会ですから、日本の二大海運会社も外せません。当時の「氷川丸」に代表される豪華客船の精巧な大型模型や、世界を巡る航路図、最先端の客室の再現などを展示し、世界への憧れをかき立てました。
ありがとう、ぐるりん。
本当に、華やかなイベントになったみたいね。
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博覧会が終了すると、その跡地を整備して、
広い敷地に、緑の公園が生まれた。
ばら園ができたのは、戦後のこと。
この公園が臨海であることには、メリットがある。
もし、また、いつか、
関東大震災のようなことが起きた時、
人々は、海へと逃げてくる。
この公園から、
直接、救助のボートに移ることも可能だ。
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山下公園の完成とともに、
その前の山下公園通りも整備され、植樹された。
街路樹に選ばれたのは、何の木か?
そう。ご存じの通り、銀杏。
でも、銀杏と言えば、
本来は、薬としてお寺などに植えられたもの。
第一、銀杏が落ちて、踏むと、強烈な臭いがする。
とても、街路樹にふさわしいとは思えない。
では、なぜ、銀杏が選ばれたのか?
答えは、火災避けのため。
銀杏の木は、江戸時代から、
強い生命力のある木として、知られていた。
火災にあって焼け焦げても、復活して行く。
確かに、銀杏は、
生きた化石とも言われている特別な木。
ここは、ぐるりんに解説してもらいましょう。
銀杏の木の凄まじい生命力
- 2億年前から「たった1つの種」で生きている
- 恐竜がいたジュラ紀から、葉の形も種の構造も全く変わらずに絶滅を免れた「生きた化石」です。
- 孤高の「1科1属1種」の植物
- 他の仲間(近縁種)が地球上からすべて絶滅したため、植物分類学でイチョウだけのために用意された完全に独立した席(イチョウ門・イチョウ綱・イチョウ目・イチョウ科・イチョウ属・イチョウ種)に座っています。
- 自ら水を吹き出す「驚異の保水力」
- 幹や葉に信じられないほどの水分を蓄えており、火災の猛火に包まれると、葉の先から水しぶきを上げて自らを焦げから守るほどの力(火伏せのイチョウの伝説)があります。
- だからお寺の「薬」だった
- 本来は街路樹ではなく、この強い生命力から、ギンナンはせき止めや消毒の「生薬(くすり)」としてお寺や神社で大切に守り育てられていた特別な木でした。
ありがとう、ぐるりん。
そうなのよ。私も、知ってる話だけど、
あなたが言ったほうが、信頼性が高いから。
こうして、山下公園公園通りは、銀杏並木となり、
特に、ホテルニューグランドからの眺めが最高。
318号室は、文豪、大仏次郎の常宿部屋。
このような窓辺で、港の景色を眺めながら、
あの「鞍馬天狗」を書いたのだろうか。
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関東大震災の復興によって、
港は、さらに、バージョンアップしていったのだが、
横浜市の財政は苦しく、
道路や橋、学校の整備に時間がかかった。
私は、海辺沿いの街歩きをしながら、
橋の建造年を調べたりしたことがあるが、
だいたい、昭和5年のものが多かった。
ということは、
7年くらい、橋がない生活を強いられており、
吉田新田跡地の街の人々は、苦労の7年間だった。
私の記憶では、蒔田公園近くの木の橋も焼け残った。
吉野町の近くだから、確か、吉野橋と言ったような?
ここも、ぐるりんに確認。
周囲の橋が「全滅」する中での奇跡
関東大震災の発生時、横浜市内の橋(大半が木造)は激しい揺れで崩落するか、その後の猛火によってことごとく焼け落ちました。中村川や大岡川に架かる他の多くの木橋が全焼し、吉田新田一帯が「炎の海に囲まれた陸の孤島」と化す中、大岡川の上流(吉野町付近)にあった初代の木造・吉野橋は、周囲の奇跡的な風向きや必死の消火活動などによって燃えずに残ったのです。
やっぱり、そうだった。
ということは、あの地区は、
両端の2本の橋によって、
辛うじて、外部との行き来が可能だった。
海側の、コンクリート製の吉田橋と、
蒔田公園側の、木造の吉野橋。
新田だったところの左右の川、
大岡川と中村川にかかる、沢山の橋は、全滅状態。
そういうこともあって、
復旧の際は、吉野橋は、国の重要橋として、
真っ先にかけ変えられることになり、
コンクリートと鉄の頑丈な橋に生まれ変わった。
この震災の歴史を省みると、
吉田橋と吉野橋は、
命の架け橋といっても、過言ではない。
改めて、インフラとしての、
橋の重要性を認識させられる出来事だった。
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関東大震災の復興は、市の予算の関係上、
東京のように、街の道路の抜本的改造には至らず、
今でも幅の狭い道路、曲がりくねった道路のままだ。
東京の、すっきりした街並みがうらやましい。
ちなみに、東京市長だった後藤新平は、
大風呂敷を広げ、道路網を1から整備し、
ヨーロッパのような美しい街並みを造った。
彼こそが、我が町、岩手県奥州市の偉人として、
歴史に名を残している。
ついでに言うと、
将来、我が町の偉人となるであろう人物が、
ひとり、確定している。
それは、誰か?
もう、わかりますね?
そう。正解。
大谷翔平なのである。
我が町の水沢公園に、また、銅像が増える。
ごめんなさい。
調子に乗って、自慢の連発しちゃったわ。
最後に、横浜港の復興については、
by ころりん
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