276 I 今の横浜市を形造った「六大事業」とは?
昨今、横浜市はさまざまな難題に苦しんで、
打つ手なしの状態に陥っているが、
過去を振り返ると、
成功した政策があるのを忘れてはいけない。
今抱えている横浜市の課題を見直す上で、
改めて、過去の成功例から学んでみたい。
それは、何か?
高度経済成長期の1960年代に打ち出されたのが、
「横浜市六大事業」の計画案だった。
今の横浜は、これにより形作られたと言ってもいい。
大成功例として語り継がれる、伝説的な都市計画。
一緒に紐解いてみましょう。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
横浜と言えば、何を思い浮かべるだろうか?
みなとみらいに、ベイブリッジ。
それらは、みな、六大事業計画に沿って造られた。
❮1960年代の横浜の姿❯
当時、横浜への人口流入が急激に増加した。
東京のベッドタウンとして、郊外への転入ラッシュ。
インフラ整備が追いつかず、学校も足りない。
無秩序に開発がなされ、生活環境も悪かった。
人口の流入が、横浜市の魅力というよりも、
ベッドタウンとして東京を補完するものでしかない。
横浜は、寝るためだけの街なのか?
それは、横浜市には、自前の産業がなく、
オフィスも少ないため、法人税の収入が乏しかった。
そんな中での人口爆発で、インフラ整備に追われ、
財政難の火の車。まさに、崩壊寸前だった。
また、関内や伊勢佐木町周辺や横浜駅周辺といった、
賑わいのある場所があるにも関わらず、
それらは、造船所のある辺りによって分断され、
街としての連続性がなく、一体感に欠けた。
魅力に乏しい街と言ったら、言い過ぎであろうか。
そんな中で登場したのが、飛鳥田市長。
民間出資や国・県の事業を巻き込み、
先行投資として、一気に年の骨格を作り直すと、
発表した。
そして、都市構想のビジョンを明確にするために、
都市計画の専門家、田村明に以来。
私も、この方の本を買って読んだことがあるが、
そのプランは、
夢と希望を感じさせる素晴らしいもので、
その論理性にも説得力があった。
本の名前を忘れたので、
Geminiきらりんに聞いてみたら、
「都市ヨコハマをつくる:実践的まちづくり手法」
という本らしい。
1965年(昭和40年)、計画はスタートした。
私が横浜に就職したのは、
それからだいぶ経った1972年(昭和47年)のこと。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮横浜市六大事業とは?❯
1都心部強化事業
2 金沢地先埋め立て事業
3港北ニュータウン建設事業
4高速鉄道建設事業
5高速道路網建設事業
6横浜港ベイブリッジ建設事業
1つ1つ、詳しく見てみましょう。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮都心部強化事業とは?❯
三菱重工の横浜ドックが移転することになり、
その跡地利用が注目された。
ここにオフィスを呼び込み、
新しい魅力ある街を作ろうとしたのが、
MM21計画だった。
みなとみらい21地区は、
造船所の1号ドックを残して再開発。
そこへ、帆船日本丸を誘致した。
ライバルは、この船の誕生地の神戸市。
イラストレーターの柳原良平氏が、
協力に後押ししたお陰もあって、日本丸を獲得した。
ちなみに、「みなとみらい」という名前の候補が、
陽の目を見ることになったのも、
柳原さんのお陰。
選考委員会で、一度は捨てられた案だった。
ほとんど、決まりかけていて、
「赤いくつシティ」になりそうだった。
柳原さんは、
もっと港町らしい名前がいいと、意義を唱え、
結局、2つの名前で決選投票の末、
みなとみらい21に決まるという、大どんでん返し。
MM21地区は、関内周辺と横浜駅周辺をつなぎ、
商業地区を一体化させ、広げる役割を担った。
稼げる街として、
ビジネス、商業、観光の拠点とするのが目的。
その中で、帆船日本丸は、
街のシンボル的役割を果たした。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮金沢地先埋め立て事業❯
それまで、都市部に混在していた工場の、
移転先としての埋め立て事業。
街のごちゃごちゃ感を解消するのが目的だった。
こうして生まれたのが、金沢工業団地。
そこで働く人のために、住宅地を整備し、
働く人の足として金沢シーサイドラインも造られた。
海を埋め立ててしまったので、
代わりとなる憩いの施設を造ることも忘れなかった。
人工砂浜を敷き詰めた海の公園や、
八景島シーパラダイスを造成。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮港北ニュータウン建設事業❯
この一番の目的は、乱開発を防ぐこと。
市が主導することで、
緑地や農地を保全しつつ、
全体としてのまとまり感のある街が生まれ、
今や、人気の住宅地となった。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮高速鉄道建設事業❯
港北ニュータウンなどに住むサラリーマンのために、
横浜の都心部へ運ぶための地下鉄を造ることにした。
市電の廃止という背景も、そこにはあった。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮高速道路網建設事業❯
港に目を向けると、
1968年(昭和43年)に、初のコンテナ船が入港し、
世は、コンテナ船時代の幕開け。
この大型船への対応にも迫られた。
水深の深いコンテナ埠頭の建設。
新たに、南本牧埠頭や大黒埠頭などが建設された。
コンテナ船が入港すると、
港には、たくさんのトラックがスタンバイし、
貨物を運んで、次々と街へ出る。
そのため、市街地は、渋滞。
この問題を解消するための計画が、
高速道路網の建設だった。
一般車両とコンテナ車両を分離するために、
首都高速や保土ケ谷バイパスを一気に整備した。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮横浜港ベイブリッジ建設計画❯
道路網の整備の一環として、
ベイブリッジは造られたのだが、
元々は、海底トンネルの計画だった。
それは、港の景観や、
航行する船の邪魔にならないようにとの配慮から。
それが、なぜ、橋に変わったかと言うと、
建設コストが莫大であることと、
トンネルの場合、防災上の理由から、
危険物積載車両の通行禁止のルールがあったから。
また、1970年代頃には、橋づくりも技術革新し、
ケーブルで吊る斜長橋の技術が進化したことで、
大型船が通れるだけの、
十分な高さを確保することが出きるようになった。
海面から55mのその高さは、
帆船日本丸が通れる高さでもあった。
これにより、
大型トラックを市街地に流さず高速道路へ。
現在では、ミナトヨコハマの玄関口として、
ヨコハマを象徴する橋となり、市民に愛されている。
この橋の名前は、もしかしたら、
当時、流行っていた、
「思い出のサンフランシスコ」の影響も考えられる。
サンフランシスコは、
生糸貿易の定期航路となっていたし、
1965年(昭和40年)には、姉妹都市にもなっていて、
ヨコハマ市民にとっては、
サンフランシスコは、憧れの港町という存在。
こうしてできたベイブリッジは、
海底トンネルよりも建設費を抑えられただけでなく、
上の道路を首都高速、
下の道路を一般道とすることができ、
2段構造によって、いっそう利便性が増した。
ちなみに、橋のデザインHの形は、
横浜のハマのHを模したと言われている。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
これら六大事業は、今なお続いていて、
完成となる日も近い。
このプロジェクトの最大の特徴は、
単にインフラを造っただけではない。
住宅・産業・交通・港湾・環境といったものを、
すべて連動させて緻密な計画のもとに実行された点。
これにより、
東京のベッドタウンとして甘んじていた横浜に、
税収を産み出す産業拠点と、
暮らしやすい住環境を両立させた。
現在の横浜の都市構造や、税収の土台は、
この六大事業によって形作られた。
まさに、自立した新生ヨコハマの誕生である。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
❮六大事業がもたらした効果と、現在の課題❯
みなとみらい21地区に、多くの企業が入ったことで、
数百億円規模の税収を産み出すことに成功した。
また、港北ニュータウンは、
子育て世代に人気の高い、上質 住宅街となった。
さらに、地下鉄やベイブリッジの建設により、
慢性的な交通渋滞が解消。
郊外からの移動もしやすい環境になった。
しかし、一方で、
あれから、半世紀ほどが経ち、
一気に作られたインフラの、
老朽化が問題になっている。
道路、橋、地下鉄、下水道、学校、公共施設、
これらが、一斉に耐用年数オーバーに。
そのため、建て替えや、維持、修繕するための費用が
重くのし掛かり、
市の財政を圧迫する原因となっている。
また、郊外の住宅地では、
一気に入居した人々の高齢化が進み、
空き家問題も深刻化しているという。
さらに、東京のベッドタウンという側面は、
今なお続いていて、
個人市民税への依存度が高い財政であることには、
変わりがないようだ。
それに輪を掛け、ふるさと納税による、
税収の大幅減少の大問題に、頭を悩ませている。
財政の健全化をどうするのか?
今度の市長選での、各候補の言及に注目。
これぞという名案が出ることに、期待したい。
by ころりん
✳️関連記事はこちらから。
⬇️
✳️私のプロフィール&過去記事一覧(画像付き)へ。

コメント
コメントを投稿